タゴール詩集 ギタンジャリから


詩集 ギタンジャリ(GITANJALI)
ラビンドラナート・タゴール(Rabindranath Tagore)
訳:高良とみ 【訳者著作権存続中】


20

蓮(はちす)の花が咲いた時 ああ わたしの心は
さ迷っていて それを知らなかった。
わたしの篭は 空っぽで
花に気付きもしなかった。

ただときどき 悲しさがわたしの上に来て
わたしは 夢からふと目覚め
南風の中に妙な香りの
あまい跡を 感じた。

そのほのかな 甘さが
わたしの心をあこがれで痛めた。
それは 夏が終わろうとするための
切ない吐息とも思えた。

その時 わたしは知らなかった その花が
そんなに近くにあり
又わたしのものであることを。
この上ないやさしさが 花開いたのは
わたしの心の底であったことを。



タゴール詩集/ギタンジャリ…神への捧げ歌
(青空文庫 より)

蓮の花が美しく咲く姿をみると、
タゴールの詩を思い出す。そして

「その時 わたしは知らなかった その花が
そんなに近くにあり
又わたしのものであることを。
この上ないやさしさが 花開いたのは
わたしの心の底であったことを。」

というギタンジャリの詩句に、ふと
ミヒャエル・エンデ「モモ」で描かれた
「時間の花」の、咲いては散り、
また豊かに咲き香る、優しい夢のような
イメージが重なって浮かんできた。

開いてはつぼむ蓮の花、その一輪ずつに
鮮やかな夏の命が宿っている。
どの花にも、どの花にも心奪われる。



橘の蔭踏む道の


橘之 蔭履路乃 八衢尓 物乎曽念 妹尓不相而

橘の
蔭踏む道の
八衢に
物をぞ思ふ
妹に逢はずして

たちばなの
かげふむみちの
やちまたに
ものをぞおもふ
いもにあはずして

( 万葉集 巻2-125番 三方沙弥 )


万葉集 第2巻 125番歌/作者・原文・時代・歌・訳 | 万葉集ナビ

人物詳細 | 万葉百科 奈良県立万葉文化館

山田三方 (飛鳥・奈良時代) – Wikipedia


橘、八衢といった言葉から、ふと
イザナギが黄泉の国より戻ってからの
禊と、禊からうまれた道俣神について
思い浮かべた。

イザナギが禊を行ったのは、
竺紫(筑紫)の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)
という場所で、「橘」の地名を含む。
「橘」は、橘岳のこととする伝承もあるという。

病床で愛しい妻に会えない身を、
生死を別たれた夫婦神の神話に重ねたのでは?
学識豊かだった作者ならではの表現、
というのは深読みしすぎだろうか。
(この万葉和歌の表現と、
古事記・日本書紀神話の成立と、
どちらが早いのだろうか。
また古事記・日本書紀の内容は、編纂当時
どれほど共有・周知されていたのだろうか)


道俣神 – Wikipedia


万葉時代から人々に愛された橘は、
時が移ろっても変わらぬ慕情の象徴
として、折々に歌い継がれる。

袖の香は
花橘にかへりきぬ
面影みせよ
うたたねの夢

( 新千載和歌集 二条為子 )


橘 – Wikiquote


( 2025.5.11 イラスト作成 Bing Image Creator )